FLY ME TO THE MOON

 1835年8月21日、同日発行のニューヨーク・サン紙に次のような記事が載った。
 「天文学的発見……ジョン・ハーシェル卿が全く新しい理論による望遠鏡を使って、実に素晴らしい発見をしていたことが判明しました。詳細は追って掲載致します。」
 そして同年8月25日から31日まで連日、「ジョン・ハーシェル卿とL・L・D、王立協会会員他が南アフリカの喜望峰で天文学的大発見」と題された記事がニューヨーク・サンの紙面を飾り、世界中の人々を驚愕させた。
 『エディンバラ科学ジャーナル』から転載されたというその記事にはハーシェル卿が月面を観察して生命を発見、さらには知性を持つ人間らしき存在までも確認したと報道されていた。新発見の月人には御丁寧にヴェスペルシリオ・ホモ(=コウモリ人間)なる学名まで付けられていた。
 サン紙の報道に大衆は熱狂、たちまち月世界ブームが到来して一時ニューヨーク・サンの売り上げはロンドン・タイムズより2000部も多い19360部にまで脹れ上がった。同紙の報道に衝撃を受けたエドガー・ポオ氏に至っては『ハンス・ファアルの無類の冒険』第2部の執筆を断念した程であった。
 真相が判明したのは何週間も経ったあとであった。週給が12ドルから18ドルに上がって気を良くしていた記者のリチャード・アダムズ・ロックは酒場で『商業ジャーナル』の記者に会い、同紙がハーシェル卿の報告をまとめた小冊子を出版すると聞いて一言、「そんな冒険は止めたほうがいい、あれは全部俺が書いたんだから。」かくしてただちに暴露記事が紙面を飾ったが、なおもニューヨーク・サン紙は居直りを続け、それからもしばらくの間世界一の売り上げを維持し続けていた。
 さて、この騒動の間、当のハーシェル卿はどうしていたのだろうか?ケープタウンで観測に従事していた彼の下に件の記事が届いたのは相当後になってからだった。ハーシェル卿は記事を結構楽しんで読み、「これほどに自分に好意的に寄せられた名誉に応えられるとはとうてい思えない」とコメントしたという。

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